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PTAはアメリカで生まれた
前回、PTAの歴史について書くと言いながら話が横道にそれてしまったので、しっかりと歴史についてまとめます。今回はお勉強的な話ですので、求めていない方は読み飛ばしてください笑
PTAの起源:米国の社会運動としてはじまった
PTAは米国の社会運動からはじまりました。
1897年にアリス・マクレラン・バーニーとフィービー・アパーソン・ハーストという二人の女性(女性に参政権がない時代!)が開いた全米母親議会がその起源といわれています。
当時のアメリカは急速に工業化、都市化が進み、児童労働や劣悪な衛生環境、教育機会の不均等や移民の問題など様々な問題を抱えていました。
そのような状況下ですべての子どもたちがより幸福で恵まれた環境で生活できる世界を築く、具体的には、教育、健康、安全の基準を引き上げ、子どもたちの生活を総合的に改善することを使命としてこの議会が設立されたのです。

当時の理念は一言でいえば「理想主義的」で、機関紙には「全米母親議会は、信条、人種、身分の差別なく、全ての親と子と家庭のためにある。その舞台は世界であり、その組織は全人類である」と記されていたそうです。

理想高すぎぃぃ!
上記の通り、発足当時は今のPTAの学校を支援(サポート)するというイメージではなく教育運動、もっと言えば社会改革運動だったのです。この母親たちの運動は、父親、教師、政治家を含む多くの人々の賛同を得て、急速に拡大していきました。その結果、組織は名称を変更し、より包括的な活動主体へと発展していきます。1908年には「全米母親議会および父母と教師の会(National Congress of Mothers and Parent-Teacher Associations)」となり 、さらに1924年には「全米父母と教師の会(National Congress of Parents and Teachers)」へと改称されます。これが現在の全米PTA(National PTA)の直接の前身だそうです。
すべての子どもたち?
急速に拡大した組織ですが、問題がなかったわけではありません。当時のアメリカ社会の人種隔離政策を反映し、1926年には、分離されたコミュニティに住むアフリカ系アメリカ人の子どもたちの権利を擁護するため、新たな団体として「全米有色人種親教師会議(National Congress of Colored Parents and Teachers, NCCPT)」が結成されています。
理想を掲げながらもその理想はアングロサクソンのものだったと。(全人類とは。。。)そしてそれは今も一部の地域に根強く残っているようです。
現代のアメリカのPTA
ついでに今現在のアメリカのPTAはというと。。。実は今の日本のPTAが直面している状況を先取りしています。(というか、だいたいのことはそうなんですが。。。これは日本が遅れているとかそういうことではなく、多民族で歴史の浅い国は変化のスピードが速いのだと思います。)
今、アメリカで主流になっているのは全米PTAを上部組織とした地方PTAではなく、各地域で独立した
PTO(Parent-Teacher Organization)です。普及率でいえばK-8(幼稚園から中学2年生まで)の保護者・教員グループの約75%が独立系であるとされています。

いや、壊滅的な状況笑!
PTOが増えていったのにはいろいろな理由があるようですが、やはりWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント、日本人がイメージする白人、だいたい中流以上の階級の人が多い)が中心の組織になっていることも一因のようです。(他民族の方が参画しにくい)また、それ以上に大きな理由として、学校による資金調達能力の違いがあるようです。
アメリカではPTAが自ら資金調達を行うのが一般的で、会費だけではなくベイクセール(お菓子を作って売る)や洗車、ゲームなどのイベントなどなどいろんなことをして資金を調達しています。ただ、アメリカの貧富の差というのは日本人の感覚からするともはや想像できないレベルなので、例えばニーヨーク市の中でも上位10のPTAの残高中央値が76万8千ドルであったのに対し、その他大多数のPTAの中央値は1,400ドルなのだそうです。(ソース)

500倍以上の差!76万8千ドル!(1ドル=145円換算で1億円超え!)
このように資金調達力のないPTAは解散して独立採算のPTOに移行するというのが1960年代をピークとして今もなお続いているようです。PTA組織の場合は上部団体の全米PTA、州PTAにもお金を払わなきゃならないので、資金難の地域ではやっていけないんでしょうね。。。
日本のPTAの歴史
アメリカのPTAの歴史を学ぶと、今の日本の問題にも相通ずるところもあり、日本の特異なところもわかり、より理解が深まるかと思います。それでは、日本のPTAの歴史も時系列的にみていきましょう。
戦前の日本
第二次世界大戦以前の日本にも、学校を支援するための様々な地域組織が存在しました。代表的なものとして、「後援会」、「保護者会」、「母の会」などがあります。これらの団体は、明治時代に近代的な学校制度が導入された当初から、その設立や維持に地域住民の負担が大きかったという歴史的背景のもとに生まれたそうです。
簡単に言うと明治時代は国の制度がまだしっかりとしていなかったので地域が中心で学校を支えており、支援組織がなければ学校が成り立たなかったという事情がありました。つまり、アメリカのように教育の質を高めようという理念ではなく、そもそも教育を維持していくための取り組みだったといえるかと思います。このことは後々の日本のPTAに大きな影響を与えます。というのも、この後アメリカからPTAが伝わってくるのですが、日本の後援会はそもそも教育を維持するための組織として必要な資源(資金、物品、労働力)を地域社会や保護者が提供するという慣行を生み出していたのです。
何か心当たりありませんか?笑
戦後の日本:GHQの影響
ご存じの通り、日本は戦争に負けてアメリカの支配下に置かれました。日本の占領統治を行った連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は教育改革を最重要課題の一つとしており、PTAの導入はこの改革の重要な柱として位置づけられたのです。GHQの基本的な狙いは、戦前の軍国主義的・国家統制的な教育システムを解体し、日本の教育と社会全体を民主化することにありました。
(この辺りが結構おもしろい(?)のですが、GHQが民主化を図ろうとしたことで、日本人のもともと持っているお上が言うことは絶対!という民主化とは相反する感覚をさらに強めてしまったように思うのです。。。)
米国教育使節団報告書の影響
PTA導入の直接的な契機の一つとなったのが、1946年(昭和21年)春に発表された第一次米国教育使節団報告書です。この報告書自体には「PTA」という具体的な名称は記されていなかったものの、「教育は学校のみに限定されるものではなく、家庭や地域社会全体が役割を担うべきである」と述べ、児童生徒の福祉増進と教育計画改善のために「父母と先生の会」を奨励すべきである、という趣旨の提言が含まれていたのです。
このとき米国教育使節団が思い描いていた「父母と先生の会」はあの高尚な理想主義的なPTAだったはずです笑。そりゃ民主化を進めているんですからね、強制的に加入して自動的に会費を徴収されるような非民主的な組織は想像していなかったと思います笑。
話はそれましたが、この報告を受けて当時の文部省は、省内に「父母と先生の会委員会」を設置し(昭和21年10月)、PTAに関する審議研究を進めました。その後、委員会はPTA設立を積極的に支援します。また、教職、公職追放された方をPTAの役員から排除するように命令もしたそうです。教職追放というのは軍国主義的な考え方の人を排除する措置のことです。
ここから日本では急激にPTAが普及していったのですが、当時1947年のアメリカでのPTA結成率はなんと全学校の20%だったと。(藤田秀雄さん、日本におけるPTAの歴史(その一)、立正大学名誉教授)
対して日本は、文部省からの通達が出された翌年の1948年(昭和23年)4月には、全国の小・中学校におけるPTA設置率がなんと7割を超えました。
本当に皮肉なことなんですが、民主化をすすめようと取り組んでいるのにお上=GHQの指令だから絶対だ!となってしまったようなのです。。。上記の「日本におけるPTAの歴史」の資料を読んでも、決してGHQは強制はしていなかったようですが、どうしても民主化を図りたい(もしくはそういうプロジェクトを成功させたい)というGHQと各地域の強い思いがPTA設立を加速してしまったようなのです。ここでもう悲劇は始まっていたのですね笑
なんちゃってPTA乱立
設置率が7割を超えたPTAですが、実はその母体は戦前からあった後援会、保護者会、母の会といった組織だったようです。というよりも、本当に名前が変わっただけのところもたくさんあったようです。しかも、覚えていますでしょうか?後援会、保護者会の類は基本的に金銭的な支援や奉仕活動を重視していました。(学校を成り立たせるために)アメリカのPTAの民主的運営、教育への積極的関与、広範な児童福祉活動なんて理念は誰も持ち合わせていなかったのです笑
また、当時の状況は戦争に負けた直後であり、戦前よりもさらに学校に対する金銭的な支援が必要です。生きるのに必死な時に知らない子どもの福祉活動するわけはないですよね。まあ、なんというか歴史を学ぶ大切さを感じます笑
こんな状態なのに組織化される
全国各地でPTAの設立が進むにつれて、これらの組織を束ねる全国的な連合体の結成に向けた機運が高まっていきました。そして1952年(昭和27年)10月、東京都で「日本父母と先生の会全国団体結成大会」が開催され、PTAの全国組織が正式に発足しました。当初の参加資格は各都道府県と6大都市(京都市・大阪市を除く)のPTA協議会とされ、7県と一部政令市の協議会からのスタートとなりました。
この全国組織の名称は、その後何度か変更されます。1953年(昭和28年)に「日本PTA全国協議会」となり、翌1954年(昭和29年)には「日本PTA協議会」へ改称、そして1957年(昭和32年)8月に再び「日本PTA全国協議会」となり、現在に至っています。2013年(平成25年)には公益社団法人格を取得しています。この日本PTA全国協議会が日P(にちぴー)という日本のPTAの最上部組織で最近問題ばかりの例の組織です笑←くわしくは笑をクリック
まとめ:そりゃあ揉めるよ
2023年3月の参議院予算委員会において、岸田文雄首相はPTAのあり方に関して「入退会については保護者の自由」との認識を示し、入退会を巡るトラブルについて「子どもが嫌な思いをしないように、それぞれのPTAと学校がよく話し合い、連携しながらお決めいただくことが適切」と発言しました。

いや、当時の文部省がむりくり作ったのが始まりですけど?
自発的に保護者と先生が「子供たちのことを考えて組織しよう!」という組織なら揉めるはずはないんです。一部には金銭的な事情やその他の複雑な事情で、働くことが子供たちにとって最大の愛情なんだという家庭もあるんです。だから、揉めるんです。
でも、最後に言いたい
でも、最後に言わせてください。きちんと運営されているPTAは絶対に子供たちのためになります。
だから、安易にPTAを退会するんじゃなくてPTAに対して意見を言ってほしいです。その意見を聞いてくれる人は必ずいると思うんです。何も言わずに退会しても問題は解決しないんじゃないでしょうか。
そんな余裕ないよという方もたくさんいることはわかっています。でも、そういう人を助けたいので私はボランティアで役員になりました。決して鬼嫁が怖いからだけではないのです笑。
読んでくださってありがとうございます!
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